どうも皆様、お久しぶりです。ガイモン(森下)です。最近は競馬で大負けして、懐にも大寒波が到来してます。
さて、昨年2021年の12月8日は、日米開戦から80年の節目ということでメディアが盛んに特集を組んでいました。
真珠湾攻撃から始まった大東亜戦争ですが、その真珠湾攻撃にて有名な電文『トラ・トラ・トラ』があります。
パールハーバーを奇襲する航空攻撃隊を現場指揮した淵田美津雄氏が、搭乗していた九七式艦上攻撃機からモールス信号で『トラ・トラ・トラ』を発信して、奇襲成功を南雲機動艦隊に伝えたというのは有名な話です。
僕は昔から、なんで【トラ】なんだろうと思ってました。強そうな虎に縁起担ぎしたのか、たまたまその年の干支が寅年だったのかなと疑問に思っていましたが、最近ネットで調べてみると、ト(突入)・ト(突入)・ト(突入)と、ラ(雷撃)・ラ(雷撃)・ラ(雷撃)の合成電文だったことを知りました。
ところで、僕はこの年末年始、実家に帰省(寄生)して戦争映画などを貪るように鑑賞しました。実家で何もせずヒモ男のようにダラダラ寝転がっていたら、親父に『お前はたるんでいる!!』と胸倉をつかまれました。
どうせ胸倉をつかまれるなら金髪碧眼の美女に掴まれたかったとです。
話は戻りますが、年末年始の映画の配信一覧の中にあったアメリカ製作の戦争映画『トラ!トラ!トラ!』が目にとまりました。
そういえば新年は寅年だったなとしみじみと感じて、このトラトラトラを連想したのです。
日米の交渉決裂により、日米開戦の決定を告げる暗号電文『ニイタカヤマノボレ1208』を受けて日本海軍が作戦を展開したというのもよく知られる事実ですが、
もし仮に日米が和解して作戦中止となれば『ツクバヤマハレ』(諸説あり)が発信されて開戦は回避されていました。
あのとき、日本が何とか妥協して『ツクバヤマハレ』が発信されていればなぁと、悔やんでも悔やみきれないというのはあります。
もちろん、個人的な過去の振り返りもしたのですが、まあ、これまでは悪業の数々を繰り返してきた僕です。仮に今たちまちに死んだら地獄行きは確定だろうなと思いました。思い返せば、自己本位な行動で地元の塾を破門されたり、思慮に欠ける言動で女子を泣かせたり、交通法規を無視したり、興味のない学業をおろそかにしたり。
前年だけの悪業でも、後輩への指導を疎かにしたり、物事をスケジュール通りに行わなかったり、仕事を効率化せずに手抜きしたり。と挙げればきりがないほど反省すべき点が見つかります。
また、普通の人でもより良い選択を行うのは非常に難しく、その時は正しいことだと思ってしたことが裏目に出たり、思うような結果にならなかったり。そうなると、あのとき選択を間違ったな、やはりああでなくこうしていれば、との後悔にいたる。
こんな風に、人間は誰しも過去の失敗や悪行があるとは思いますので、やはり一番肝心なのは、間違いを繰り返さないために、失敗とその原因を突き止め、改善するように思考や行動をシフトさせていくということだと思います。
言うは易く行うは難し。
ただ、ここからひとつ分かることは、過去の自分を完全に肯定してしまうことは必ずしも正しいことではないということ。
人間というのは必ず過ちを犯すものですから、別にその失敗をずっと振り返って自分を責める必要はないですが、過去の自分を単に正当化するということでなく、自分の過ちを批判して咀嚼し、より良い未来を切り開く代謝のための栄養分にしなくてはならないと考えられます。
では、この思考モデルの補助線を引くために、2つの物語を引用しましょう。
まず、小松左京のSF小説『地には平和を』の一節に、こんな節があります。物語の中で、過去を改変することができる装置を開発したマッドサイエンティストが、過去に遡り過去を改変してしまいます。
彼は、太平洋戦争末期を改変して、日本が本土決戦を実行して史実よりもはるかに上回る犠牲者を出す世界へと改変しました。
そのマッドサイエンティストの主張は『過去の出来事が中途半端に終わって完結している。だから、理想的な過去から見た未来(現在)が不完全で、それが日和見主義の温床なのだ。それで完璧な平和主義が実現していない。ならば過去の出来事を極端にすれば理想的な現在が得られるだろう。我々は理想的な未来のために、理想的な過去を選ぶ権利がある。』
一方、そのマッドサイエンティストに対して、彼を検挙して尋問した検察官は、冷静にこう言い返す。
『単一のやり直しのきかない歴史(過去)を生きてこそ、我々は人間なのです。』
もうひとつ、森見登美彦の小説『四畳半神話大系』も考えさせられます。京都大学工学部3回生の学生が主人公のお話です。少しその物語の冒頭を引用します。
大学三回生の春までの二年間、実益のあることなど何一つしていないことを断言しておこう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有為の人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。 責任者に問いただす必要がある。責任者は何処か。 私とて誕生以来こんな有り様だったわけではない。
僕がこれを大学1年生で読んだときは笑い転げましたけども、今読んでみると自分のことを言われているのかと冷汗がでるものです。
この物語の主人公は、彼自身が1年生から歩んできた人生がすべて間違いだったと思い込み、他人の足を引っ張って生きがいを感じるクズ人間と化します。もし1年生のときにあのサークルやこの部活に入っていたら、バラ色の学園生活を送れていて、こんなひねくれた生活はしなかっただろうと苦悩します。その苦悩の甲斐あってか、あるときひょんなことから、複数のパラレルワールドに飛ばされ、1年生の春からやり直すのを何度も繰り返します。しかし、どのサークルに入った世界線であっても思い通りの学生生活は送れず、結果はどれも同じでバラ色の学生生活とは無縁の灰色の学生生活となります。つまり、ただ外的環境を変えるだけでは、目的達成は不可能であることを彼は悟るのです。
パラレルワールドとパラレルワールドの狭間で苦悶した彼は、満足いかない灰色の学生生活でも自分が何とかそれなりの生き方ができたのは一体何故だったのかと考えあぐね、結果、それが彼の悪友の蔭からの助力によるものだったと気づきます。
その悪友を蔑ろにしてきた自身を大後悔し、もとの3年生の世界に戻ることができたとき、自分が否定して目を背けてきた過去に真正面から向き合ったうえで、より良い未来のために生きられるよう行動しだしました。
以上の2作品から導き出せる教訓は、過去としっかり向き合い、ただし、その過去に執着したり囚われたりするのではなく、よき未来のための土台として受け入れなければならないということ。
後悔先に立たずであるから、やり直しの効かない世界であるからこそ、その過去に対する後悔の念は尊いものとなり、現在と未来に対して気が引き締まるのだろうと思います。
戦後40年の節目を迎えたときの西ドイツの大統領であったワイズ・ゼッカー氏は、名演説『荒れ野の40年』(おそらく、旧約聖書でモーゼが荒野を40年間放浪したことにかけてます)の中で『過去に目を閉ざす者は、現在にも目を閉ざす』と述べられましたが、まさにこの通りで、さらにセリフを付け足すとすれば『将来にまでも目を閉ざす』でしょう。
過去に向き合うことは辛いこともあるが、受け入れたときに現在と未来への布石となり、昇華させれば良き思い出の一部となる。後悔なんてしなくていいと言う者があれば、それは詐欺師か悪魔に違いありません。
『トラトラトラ』を発信した国家の過ちを叩き、『トーラー』(ユダヤ教の律法書)へと昇華させることができるかどうか。『ニイタカヤマノボレ』でなく、どうしていれば『ツクバヤマハレ』を決意できただろうか?との思考を絶やさないこと。
後輩たちがブログで昨年の反省と今年の抱負を書いていましたので、こんな考え方もあるよということを伝えたいです。
自身の半生は反省だらけ、人生という大海原においては、我々は否応なく航海(後悔)の中にあるものだろうと。
つまるところ、僕は過去において金髪碧眼美女と関わる機会を作る努力をしなかったことが悔やまれるところです。
個人的な今年の抱負は、親父ではなく金髪碧眼美女に胸倉を掴まれるよう、普段から金髪碧眼美女との関りをもつように努力したり、英語やロシア語などの外国語を勉強したりといったことに当面したいと思います。
よかったら紹介してください。
過去を見つめたとき、あのときこうしていれば、ああしていればの連続です。その後悔を弁証法的に、後悔と更改を繰り返して如何に昇華させられるかが大切なのでしょう。
嗚呼、ツクバヤマハレ。
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